大学の勉強会で吃音について発表した話。

吃音

「吃音という言葉を聞いたことはありますか?」

大学のサークルでの勉強会で、そんな問いかけから私は発表を始めました。
発表を始めたとき、将来医師や看護師を目指す学生たちの多くが、吃音についてほとんど知りませんでした。

でも、知ることで「どう接すればいいのか」が分かり、学生たちの理解が明らかに変わったのです。

私は吃音の当事者です。今回は、医学部サークルの勉強会で発表した経験をもとに、「見えにくい障害」と支援のあり方について考えてみたいと思います。


医学生や看護学生でも知らなかった現実

私が所属していた医学部のサークルでは、医療や福祉に関するテーマで勉強会を開いていました。その勉強会で「吃音」について発表する機会をいただきました。

冒頭で「吃音について知っている人はいますか?」と聞くと、会場の反応はとても静かでした。数十人いる参加者の中で、手を挙げたのはほんの数人でした。

「どれくらいの人が吃音を経験しているか知っていますか?」「吃音に治療法があると思いますか?」そんな問いかけにも、多くの学生が首を傾げていました。

吃音は見た目にはわかりにくい障害です。そのため、日常生活の中で見過ごされがちです。
実際、勉強会に参加した学生の中には、「そういう障害もあるのか」「もしかしたら、小学校の同級生も吃音だったのかも」と初めて気づいた人もいました。


当事者と支援者のすれ違い

私が発表の中で強調したのは、「吃音の当事者が望む支援」と「周囲が良かれと思ってする支援」との間にズレがある、ということです。

例えば、話している最中に言葉が出てこないとき、周りの人が先回りして「これ言いたいんでしょ?」と助け舟を出してくれることがあります。一見親切に見えるその行動が、当事者にとってはあまり嬉しくないこともあります。
私自身、「自分の言葉で伝えたい」という強い思いがあります。たとえ時間がかかっても、それが自分の表現だからです。
また、「ゆっくりでいいよ」「落ち着いて」といった励ましの言葉も、時に逆効果になります。注目されることで、かえって焦りが増してしまうからです。

この話をしたとき、参加していた学生の一人が「それって良い支援だと思ってたけど、実際は違うんですね」と驚いていました。けれどその後、「伝えたい気持ちを“待つ”ことが大切なんですね」と理解を示してくれて、私はとても嬉しく感じました。


医療者として、まず“知る”ことから

手足の欠損や車椅子の使用など、目に見える障害には気づきやすく、医学を学ぶ上で題材になることもあり、学ぶ機会も多いです。
しかし、吃音のような「見えにくい障害」や「気づかれにくい困難」は、まず知識として知ることが少ない。そして知る機会がなければ、学ぼうともせず、理解もできず、適切な支援もできません。

だからこそ大切なのは、「まず知ること」。そして、「本人がどう感じているか」を想像し、寄り添うことだと思います。

吃音に限らず、発達障害や精神的な困難、LGBTQなど、見えない背景を持つ人はたくさんいます。当事者たちが「この人には話してもいいかもしれない」と思える関係を築くには、医療者の側が“気づこうとする姿勢”を持つ必要があります。


当事者も伝えることで世界が少しずつ変わる

吃音について知る人が少ない現状は、医療者に限ったことではありません。
将来医療者になろうとする学生でも知らない人がほとんどだったことからも分かるように、社会全体の認知度はまだまだ低いのが現実です。

でも、だからこそ、当事者が自分の言葉で体験や気持ちを伝えることに意味があります。知ることで、支援の形が変わる。伝えることで、「分かろうとしてくれる人」が増える。

勉強会のあと、何人かの学生が「もっと知りたいと思った」と声をかけてくれました。その一言が、私にとって何よりの励ましでした。

もしこの文章を読んで、「吃音って何だろう」「自分の周りにも困っている人がいるかもしれない」と思っていただけたら、それだけでこの発信には価値があると思っています。

吃音に限らず、「見えにくい困りごと」はたくさんあります。
私は環境に恵まれ、今ではこうして自分の体験を発信することができています。しかし、吃音であることに蓋をして生きていきたいと思うくらい吃音に対して辛い思い出ばかりもいるでしょう。

決して無理に声を上げる必要はないと思います。
もし可能であれば、多くの当事者が声をあげ、医療者や社会が耳を傾ける。
そうした小さな一歩一歩が、よりやさしい社会につながっていくのだと思います。

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