「どうして医師になりたいの?」
高校生のとき、私はそう聞かれるたびにこう答えていました。
「吃音を治したいからです」
私は、話すときに言葉がつかえてしまう吃音を抱えて育ちました。授業中の音読、スピーチ、友達との会話… どれも緊張や不安と隣り合わせ。
吃音が出てしまうと、少し凹んでしまいました。
だからこそ、吃音を「治す」ために、そして同じ悩みを持つ人の力になりたくて、医師を目指すようになったのです。
でもある日、私のその思いに対して、高校の先輩がこんなふうに言いました。
「”吃音を治す”ために医師になるっていうのは…ちょっと違う気がする」
その言葉が、ずっと心に残っている
先輩が言った言葉について考えても「どういう意味だろう?」と正直、よくわかりませんでした。
でも、時間が経つにつれて、その言葉が自分の中で少しずつ変化していきました。
昔ほど吃音で嫌な思いをすることが減ったからか吃音を忌避する気持ちが薄らいでいたことに気づいてきました。
そして、こんなことを考え始めました。
- 吃音がなかったら、自分は何を目指していたんだろう。同じように医師を目指したのか?
- 何に夢中になって、どんな未来を想像していたんだろう?
吃音があったことで、いじられたり、恥ずかしい思いをしたり…つらい経験もたくさんありました。
その一方で、同じように悩んでいる人と心が通じたこともあるし、
「大丈夫だよ」と言ってくれた先生や友達との出会いもありました。
吃音があったからこそ、「話す」ということの難しさや、人との関わりの繊細さに気づけた。
吃音がなければ、私は「人の痛みに気づける人」にはなれなかったかもしれない。
私に吃音がなかったらと思うと、自分の人生が想像できなかったのです。
吃音は「治すもの」? それとも「受け入れるもの」?
吃音を治せる方法があるなら、それは素晴らしいことだと思います。
しかし、吃音を治す方法は現在見つかっていませんし、むしろ今は吃音は発話の多様性の一つという認識が主流です。
吃音があることが問題ではなく、吃音がある人が周囲の環境に受け入れられるかが問題なのです。
私の場合、吃音があるからこそ、苦手なことに挑戦する力がついたし、他人の悩みに耳を傾ける姿勢が育ちました。
それに、吃音があるからといって、やりたいことをあきらめる必要はない。
実際に、私は劇やスピーチにも挑戦してきました。
もちろん緊張はします。でも、「吃音があるから無理」と決めつけなくなったのです。
「治したい」と「受け入れる」は、両立していい
ここで誤解してほしくないのは、「吃音を治す努力」や「トレーニングの研究」を否定したいわけではないということです。
私自身、今でも吃音のことを学び続けていますし、発話のコツや練習法も取り入れています。
ただ、以前のように「絶対に治したい」とという気持ちは、少しずつ減ってきました。
それよりも今は、
- 吃音とどう向き合っていくか
- 吃音があることで得られた経験をどう活かしていくか
そういうことを大切にしたいと思っています。
吃音を「治す」ことと「受け入れる」ことは、対立するものではありません。
吃音を和らげつつ、自身の一つとして受け入れることはできるのかなと感じています。
両方を重ね合わせて、自分なりのバランスを見つけていくものなのだと思います。
さいごに:吃音が教えてくれた、自分らしい生き方
正直に言えば、吃音なんて「ないなら、ない方がいい」と思っていた時期もあります。
というか、吃音が出ずに話せるなら、その方が間違いなく楽です。
でも今は、吃音も自分の大切な一部なんだとも思えるようになりました。
吃音があったから、私は医師を目指すようになり、
たくさんの人と出会い、いろんな価値観にふれることができました。
「普通って、なんだろう?」
そう考えるようになったのも、吃音のおかげです。
人と違うからこそ、ちょっと引いた視点で物事を見ることができたのかもしれません。
吃音が私にくれた問いは、これから医師として生きていく中でも、ずっと大切な原点になると思っています。
そして、いまこれを読んでくれているあなたが、
もし吃音に悩んでいたり、自分の「ちがい」にモヤモヤしているとしたら――
どうか覚えていてください。
あなたの中にある「ちがい」は、きっといつか、誰かの支えになります。
それが、私が吃音から教えてもらった、大切なことです。
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